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どうもっ!
金曜ロードショーの「ちはやふる~上の句~」を見て、すっかり競技かるた部の一員になったつもりのゆみでっす!!
百人一首ってたしか学校で習ったよね~
でもカルタまではやったことないな~と思い、職場では今、坊主めくりが流行っているので誰が何で百人一首を作ったのか調べてみました♪
百人一首を作ったのは誰?
百人一首を作ったのは・・・
藤原定家です!!
私は「ふじわらのさだいえ」と読んだのですが「ふじわらのていか」と読む人もいるみたいですね
藤原定家は鎌倉初期の歌人で、父親は千載和歌集(せんざいわかしゅう、平安時代末に編さんされた勅撰和歌集で全20巻)を撰進した歌人・藤原俊成
16歳で初めて歌合(うたあわせ、和歌バトル)に参加する
18歳の時に源平の争乱が始まりましたが定家は「世間では平家を追討せよと言っているけれど、そんなことはどうだっていい」と和歌の世界を極めるためにこう宣言したそうです
この言葉通りに19歳で「初学百首」20歳で「堀河題百首」を詠んでいます
その内容のすごさに父親の俊成は感激して涙したそうです
すごいですね!
我が道を行き、和歌に磨きをかける・・・
私も、常日頃から「私は私」と言い聞かせて(人に迷惑をかけない程度に)周りを気にしないようにしていますが、もし、戦みたいなのが始まったら我が道は通せないな~と思います
それに、18歳から74歳までの56年間の日記を残しているそうです「月明記」と言われているようですよ!
その日記の中の建仁元年(1201年)に後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に書いた部分を「熊野行幸記」と呼んでいます
私、日記は3日坊主です~・・・
※ 勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)天皇や上皇の命により編集された歌集
※ 撰進(せんしん)詩歌・書物を編集して天皇などに 奉ること
百人一首を作った理由
定家がなぜ、百人一首を作ったというと
宇都宮頼綱から頼まれたからです
※宇都宮頼綱とは平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士・御家人・歌人です
74歳で「新勅撰和歌集」をまとめ上げ、75歳で宇都宮頼綱に頼まれ、今までの歌集制作の総決算的な意味合いで「小倉百人一首」を選出しました
その後、79歳で永眠されました
いつから「小倉百人一首」がかるたになったかというと、戦国末期にトランプが日本に入ってきてからのようです
ちなみに、藤原定家は京都市上京区の相国寺に眠っているそうです
相国寺→HP
藤原定家が詠んだ歌は?
定家は「権中納言定家(ごんちゅうなごんさだいえ/ていか)」という名前でちゃっかり百人一首の中に自分の歌を選んでいます
それがこの歌です
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くや 藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ
権中納言定家(97番)
今の言葉で書くと・・・
松帆の浦の夕なぎの時に 焼いている藻塩のように
私の身は来てはくれない人を想って 恋焦がれているのです
この歌の主人公はあわびなどをとる少女で、いつまでも来てくれない恋人を待って身を焦がす姿を詠んだものと言われています
ちゃっかり自分の歌も載せたと書きましたが、百人一首を深くは知らない私でもこの歌を詠んでこの少女の置かれている状況を想像できる素敵な歌だな、と思います
ちはやふるの奏ちゃんがうっとりしちゃいそうな歌ですね!!